2017-01-01から1年間の記事一覧

初ソロ 続き

疲労困憊の私ははかなりボーっとしていたと思う。 教官はランディングでの注意すべき点を指摘して来るのだが「ハイ」と返事をしていても頭に入っては来ない。 教官は粘り強く同じ注意を何度も何度も繰り返していたのはははっきり覚えている。 いきなり教官の…

ついに初ソロ

同期が次々とソロフライトへと進んでいくうちに次第に不安が募って行った。 はじめのうちはランディング(着陸)が苦手なのは自覚していたのでそれほど焦りも無く、同じように取り残された同期と冗談交じりに「このままクビになったりしてな」なんて冗談も言…

地上は苦手

フライトコースは初級操縦課程から始まる。 当時の初級操縦過程で使用していた機体はアメリカの練習機だったものを富士重工がライセンス生産したT-34(メンター)だった。 まだ軍用の航空機を日本で作ることのできない時代であったが、のちに国産のT-3を経…

フライトコースに

2年間の地上教育課程を終えるといよいよフライトコースへと進むわけだが、当時の学生数(すでに5人程度になっていた)では練習機の数からいって全員が同時に訓練を始めることはできない。 そこで英語の実力ごとに6~7人のグループ分けをして2か月おきにフラ…

BARで戦闘訓練

その後どうなったかと言えば 三か月の外出禁止処分をくらうことになる。 前の週に街に出た時には薄手のセーターを着た人もちらほら見かけたが、次に出た時には半袖意外は見かけることは無かった 外出禁止になったのは5月であるから当然次の外出は8月。当然…

外出禁止

航空学生に入隊2年目のことだった。 当時は普通に室内室外を問わず喫煙を制限されることはあまりないことだった。 当然室内でも課業時間以外は自由に吸う事が出来た。 ただ一つ寝たばこだけは厳しく禁じられていた。もちろん火災の危険性があるためで当然の…

地上教育

航空学生になると最初の2年間は地上教育が行われる 名称が学生だけあって雰囲気としては学校の延長的な雰囲気はあるが自衛隊であることには変わりがなく。最初は体力と規律の訓練に明け暮れる毎日である 最初の3か月は走って給料をもらい次の3か月は走っ…

村上司令の最後の思い出 

私の期の地上教育課程の卒業と同時に村上司令も航空学生隊司令を退任することとなった。 定年まで残り一年は空幕付きだったと記憶する その卒業と退任の前日、私ともう一人が偶然にも隊司令室の掃除担当となった。 その日司令室に入ると通常は部屋にいない司…

村上英士と源田実 その3

実際にどのような会話が行われたのか私にはわからないし知る由もない。 ただ結果として浜松基地の飛行場を民間の飛行クラブが使用することは無かった。 以下は私の想像である 長い沈黙は源田を苛立たせた。 自分の要請になかなかOKを出さない自衛隊に乗り込…

村上英士と源田実 その2

民間の飛行クラブが源田実のもとに陳情を行ったのは正解である。 当時の航空自衛隊の中で源田実に逆らえるものなど誰もいないはずだから。 しかしながら自衛隊と民間で共用するためにトラフィックを別にするには大いに問題がある。 着陸するためには風下側か…

村上英士と源田実

それは村上英士が浜松基地司令時代に起きたことだ。 源田実は既に航空自衛隊を退官し国会議員へと転身していた 国会議員として活動する源田のもとに一つの陳情が舞い込んだ。 民間の航空ファンクラブの一つが浜松基地の飛行場を民間の自分たちにも使えるよう…

どこかに何らかの意思がある

村上一佐が閑職に追われたのには理由がある。閑職と言っても(防府)基地司令兼任の隊司令なのであるからそれなりの要職のようには見える。 しかし考えてみてほしい。自衛隊の部隊の中でパイロットがいる部隊の中で入隊後最初に入る部隊である。 多くの実戦…

村上司令

航空学生に入隊した当時の航空学生隊司令は村上英士一佐だった。 陸士(陸軍士官学校)出身で自衛隊草創期から活躍しており、俺が入隊したときには定年まで3年といったところであった。 司令は俺と同郷であり色々と気がけてもらったこともありとても思い出深…

航空学生

とうとう憧れの航空学生に入隊することになりめでたくパイロットへの道を歩き出すことになる 当時は合格者は100名近くいて実際に入隊したものが70名強。最終的に2年間の教育課程を経てフライトコースに進んだのは50名そこそこだった 入隊後最初の2年間は地上…

入隊

航空学生に決めたのは早くから飛行機に乗れることだった 別に自衛隊で出世したいという気もなくただただパイロットになりたいということ以外なかった 試験は3次まであったが、航空学生を受験するにあたって一番楽しみだったのが3次試験だ 3次試験は実機(…

防衛大学か航空学生

中学生の頃に軍事おたくになったおかげで将来の希望は国際線の機長から戦闘機パイロットに変わっていた 戦争で戦闘機に乗り派手に戦ったら死んでもいいというくらいの勢いだった 高校進学は防衛大学に一番多く進んでいる県立高校を目指したが 結果は私立校に…

進学校に行ったけど

高校は私立の進学校に行くことになった 別にいい大学に行くためとかではなく希望の公立高校に落ちたという単純な理由でだ 今では珍しくもないが当時としてはかなりの勉強漬けの高校だった 何しろ校長が入学式の挨拶で 「うちは大学に行くための学校です。大…

将来の夢は?

将来何になりたいのか? 小さなころは社長か総理大臣と答えていた 別に本当になりたいと思っていたわけでない、多分 ハッキリとなりたいものが見つかったのは小学6年の時だった パイロットになりたい! 理由もはっきり覚えている。子供向けの本に国際線の機…

生まれたのは漁業の町。かっては日本有数の漁港という歴史のある町。 小学生の頃の遠足と言えば海。山に遠足なんてことは一度もなかった。 そんな海に囲まれたところでも小学校で6回も遠足があればいくところも無くなるというもの。 6年生での遠足は目的地も…

1番古い記憶

一番古い記憶は多分3歳か4歳の頃の出来事だと思う。2歳年上の姉がまだ幼稚園に入る前のことだ。 俺は姉と抱き合って恐怖と悲しみで泣いていた。姉も泣いていた。 場所は旅館の2階だったような気がする。2部屋繋ぎで奥の間で床母親が床の間を背にして此方向き…

お客との人間関係

所長の家は地方では豪邸の部類に入れてもいいほどのレベルで、今同じくらいの家を建てるとすれば1億は行くだろうというくらいの大きさだった。 たまに呼ばれて遊びに行った時によく言っていたことがある。早くに父親を亡くし貧しかったそうだ、それでも努力…

セールス時代

一時期トヨタの系列ディーラーでセールスとして勤めていた時期があった。 無職で仕事を探していたところをそこの所長が拾ってくれたのだが、その所長というのがすごかった。 全国の系列店の中でトップを取ったことが有るという。つまり日本一という事だ。 入…

議員会館に行った話

若いころ議員会館に行く機会があった。 まだ20代半ばの頃で縁あって地元選出の議員(故人)の秘書の方から「一度遊びにおいで」と誘いを受けたからだった。 政治に興味があったわけではないが、めったにない機会である。 当時は静岡県に住んでおり自分の車で…

ロト7で2等当選した話

当たるときは意外とすぐにはわからないものだ。 一個づつ当選数字をチェックしてうちに。これも当たってる、これも当たってると照らし合わせているうちに何だか結構当たってるなという感じだった。結局6個当たってたか~、6個当たりなんて初めてだなという感…