その2

その時の試験はそれまでの実績により筆記試験はレポートでよろしいという事であった

それまで試験を落ちたものは一人もいないのでわざわざ時間をかけて行うまでもないという事からで、それは何の問題もなく終了した

残るのは実技の航法である

本来ならT-33に受験者と試験官が同乗して行うものだろうが試験官はT-33の操縦は出来ない

そこで学生と教官が同乗しで試験官は教官の操縦するT-33で同行して受験者の航法をチェックする

その際には学生に同乗する教官は学生の操縦に手を貸すことはもちろんアドバイスをすることも禁止されている

 

いよいよ実技が始まったが私のフライトは最後だった

フライトの内容は航法で浜松を離陸した後に伊良湖を経由して尾鷲で折り返して同じルートで浜松に戻るといういつもの訓練コースである、何の問題もないと予想された

人生最高のまぐれ

浜松の過程を終了するとウィングマークを授与されいよいよ一人前のパイロット(第一線で使い物になるわけではない)として認められることになる

しかしウィングマークはあくまでも自衛隊内での資格であって日本という国で認められたパイロットではない

資格的には自衛隊の任務で飛ぶことは出来るが実際には空を飛ぶ資格がない状態と思ってもらえばいい

 

今では航空学生も国のパイロット養成機関として認定されていてウィングマーク取得と同時に事業用操縦士の資格も取得する出来るが、当時は運輸省(今の国交省)から試験官が来て試験(筆記と実技)を受けなければ事業用操縦士の資格を得ることは出来なかった

 

私がその試験を受けたのは今回の試験が良好ならば国から正式に認可が下りて国指定の養成機関としての認定を受ける事が出来るという重藤な試験だった

 

もしも私たちの誰かが下手をして運輸省から不可か判定を受ければそれまでの先輩たちの努力が全て無に帰すという事態に落ちることになる

続き

自衛隊を退職し後は浜松で前に書いた所長のもとで車の営業をしていたが、そんなある日懐かしい男から連絡があった

それは浜口からでもうすぐ浜松を卒業するので、その前に飲みに行きましょうという事だった

退職した私をおぼえていて浜松を去る前に一緒に飲みたいと誘ってくれたことにこみ上げるものがあった

 

飲みながら色んな話をしたのだろうが、その時のことは思い出せないが帰り道でのことは今でもはっきりと思い浮かべることができる

 じゃあ元気でな

各々の帰る方へと向かい歩き始めた私の後ろから浜口が大きな声で呼び止めた

 先輩!

振り向くと何やらかしこまっている

 なんだ

 俺はブルーインパルスに入ります

当人はかしこまっているが何だかほほえましくみえる

浜口の隣には一緒に来ていた同期生(名前は脇田だったと思うが彼も私にはよくしてくれた)も驚いた顔で見ている

きっと彼はそれまで私に言ったことは無いがブルーインパルスに入りたくて航空学生に入ってきたのだろうと思う

 おう、頑張れよお前ならきっと行ける

 はい、頑張ります

人の情熱に触れるとこっちまで胸が熱くなる、おかげで私が見送るはめになってしまった

 俺はやるぞ、必ずブルーインパルスに入る

そう叫ぶ姿を見たのが最後だった

 

事故のニュースを見てクラブチームを辞める気なっていた気持ちはすっかり消し飛んでその後何年も続けることになる

 

浜口、お前は本当にブルーインパルスに入ったんだな

 

 

 

後輩

航空学生は海上自衛隊にもあり2年次になるといくつかのスポーツで航空と海上の対抗戦が行われていた(今も行われているのかどうかは知らない)

種目は少ないために高校時代にやっていた競技ではなく授業で体験した程度の競技に入った

その競技は県リーグもあり対抗戦の為にも参加していたがメンバーの中に経験者は1人だけで専門の指導者もいないなkで勝てるはずもない

全廃街道まっしぐらの中にやってきたのが1つ下の浜口という後輩である

彼は高校での経験者であり中々の元気者で彼のおかげでついに1勝することができた

浜口はなぜか先輩先輩と私になついてきた

 

10数年後彼の名前をテレビのニュースで聞くことになる

当時私は故郷で親の家業を継ぎ結婚もして普通の暮らしをしていたが、なにせ田舎のことである

碌に遊ぶところも無いので航空学生時代に経験していたこともあり地元のクラブチームに参加していたがそれはかなりハードなスポーツで、仕事で腰を痛めたことのあり練習に行かなくなっていた

夕食後何気なくテレビのニュースを見ているとブルーインパルスの事故が報じられた

画面に映し出された殉職者の中に浜口の名前があり最後には単価に乗せられシートにくるまれた遺体まで放送された

それが浜口であったどうかはわかるはずもないが私にはそれが彼なのではないかと思えてならない

ブルー初の人身事故

浜松の航空ショーでブルーインパルス初の死亡事故が起きた時に私はすでに自衛隊を辞めていて人づてに知ることになった

そして殉職者が高島二尉(浜松時)だと知って少なからぬショックを受けた

高島二尉は私が浜松にいた時に教官として在籍していらしたがとても学生から慕われていた

出身県が同じで私が憧れ受験に失敗した高校の出身者であった

今では死語となってしまったがバンカラ言った雰囲気を身に着けた人で学生の兄貴分といった存在だったのかもしれない

訓練を終えてブリーフィング室の前を通ると教官の中で一人だけ何人かの学生と楽しく談笑する声を聞くことが何度もあった

1度だけ私たちの隊の教官が足りない時に同乗してもらったことが有ったが、まあ劣等生の私のことである。散々に怒られて終わったのはおまけの話

 

事故後しばらくしてある話が関係者の間でささやかれた

墜落地点はホンダの車両置き場だが高島二尉は民間人に被害を与えないように自らそこに落ちたのではないかと

もちろん根拠はある

本来のコースは滑走路に沿って飛ぶが、墜落地点の車両置き場はその軸線からずれている

墜落地点がホンダの車両置き場だったおかげで数人のけが人は出たが民間人に死亡者が出る事はなかったのだ

脱出装置を使えば自らは生きることができたであろうが、脱出することなく本来のコースから外れた落ちたことを合わせて考えれば理解できる話だ

 

人身事故

忘れもしない、それは1年の最後を締めくくるはずの日に起きた

 

その日は訓練もなくブルーインパルスだけが訓練を行い、終了後には冬休暇となって故郷に帰るはずだった

ブルーインパルスも訓練を終わり、さあ休暇だと全員が身の回りの物を整理し始めバタバタと身辺の整理を始めたばかりの時に

 休暇中止、休暇中止。その場に待機せよ

廊下の向こうから大きな声が響いた

しばらくすると何が起きたのかがわかってきた

どうやら事故があり整備員に死人が出たらしい

通常の訓練で整備員が死ぬことなどありえない、全く予想外の出来事だった

基地内は騒然となりあわただしく人が行き来する事態となった

 

自衛隊で死亡者が出た場合にはその状況次第で葬式のやり方が変わるのだが、その時は基地葬となった

基地の全員で葬式を行うのである

それは事故にあった当人に何の落ち度もなく、勤務中に避けようも無い事態に巻き込まれて死に至ったことを示している

事故の原因については思うところがあるので後述することにする

 

私たちは葬儀の準備等の補助を担当することになり、うろたえながらも式当日を迎えた

死んだ整備員は新婚で結婚後1年もたっていなかったことを知ったのは式の当日だった

 

基地葬とは言っても誰もが体験する葬式と何も変わらない

何も実感が湧かないうちに焼香の段になり死んだ整備員の妻に焼香を促すアナウンスがあった

その時に私が見たのは、まだ目も開かない赤ん坊を抱きかかえた女性であった

その人は何度も席を立とうとするが赤ん坊をを抱えてなかなか立つことができない

隣にいた恐らく彼女の父親であろう人が赤ん坊を抱きかかえて彼女を立たせたが、歩き出すために傍にいた隊員の支えが必要なほどであった

 

その日のことはビデオで録画した映像を再生すがごとく鮮やかに思い出すことができる

 

その2

松坂慶子トークと歌の後にブルーインパルスが飛んだのだが、去年だかネットの書き込みに

 自衛隊松坂慶子の為にブルーインパルスを飛ばせた

という書き込みを見た

いまだにそんなデマを書いている者がいるのには驚いた

 

ブルーインパルスも普段は訓練空域で訓練しているが、学生の訓練がない時は基地上空で航空ショーで披露する演目を通しで訓練している

当日は学生の訓練が無かったのだから特別おかしいことではない

学生は慰問を受けてブルーインパルスは通常の訓練をしただけである

 

しかし特別なことが無かったわけではない

演目の1つに機体をひっくり返して(背面飛行)で地上近くを滑走路に沿って飛ぶ背面でのローパスがある

飛行機というものは背面で飛ぶこ様には作られていない

一部、燃料系など構造上背面時に考慮して作られている部分もあるが、だからこそ曲技飛行の演目として成り立っている

 

その日も背面で侵入してきたのだが・・・

低い、いつのも訓練と時に比べ高度が明らかに低い

パイロットでなくても基地にいればブルーインパルスの訓練は見慣れているのでだいたいどの程度かは知っているが、その日は本番並みの演技だった

一瞬基地全体が

おおー

と、どよめいた

気合入ってるなと思ったものだが

 

結局男というものはイイ女が見ているというだけで命がけになるものなのだ

まあ、松坂慶子には伝わってはいないだろうが